7-2. 大和・壺坂みち 土佐街道(町屋の雛めぐり)~高取城跡の写真

1. R207橿原神宮西

橿原神宮の裏手を通って壺阪へ
R207 第3代 安寧天皇陵 畝傍山口神社

第4代 懿徳天皇陵 第4代 懿徳天皇陵 第4代 懿徳天皇陵

2. 壺阪山駅~土佐街道(町屋の雛めぐり)

土佐街道: 高取藩の城下町として多くの人々が往来し、大和平野と吉野地方の文化の交流拠点として大いに賑わった。
また、壷阪寺の参詣道として往時を偲べる。
壺阪山駅 壺阪山駅 壺阪山駅

壺阪山駅から土佐街道へ 町屋の雛めぐり 町屋の雛めぐり

町屋の雛めぐり 町屋の雛めぐり 町屋の雛めぐり

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土佐街道 町屋の雛めぐり 町屋の雛めぐり

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光明寺 人面石 町屋の雛めぐり

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伊勢屋屋敷跡 町屋の雛めぐり

植村家長屋門 植村家長屋門

薬膳料理 花大和 薬膳料理 花大和

町屋の雛めぐり 町屋の雛めぐり 町屋の雛めぐり

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お里沢市の墓(信楽寺)
今より三百年以上昔、
座頭の沢市は三つ違いの女房お里と
貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。
沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、
お里は内職というなんともつつましい暮らしであった。

そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれていた。
というのも明けの七つ(午前四時)になると、 お里が毎晩床を抜け出していたからだ。
「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、
この三年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていると訴える。
疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしたが、
心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責める。
そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまうのであった。
不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまう。
しかし、二人のせつない夫婦愛が、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市・お里は助かり、 沢市の目が開眼した。本堂横手には、そのお里、沢市が身を投げた、投身の谷と言い伝えられている谷がある。

3. 壷阪寺

眼病にご利益のあるお寺として知られている壷阪寺。
本堂である八角円堂には十一面千手観音菩薩像が安置され、「目の観音様」として篤く信仰されている。
観音様といえば普通は目を閉じた表情ですが、壷阪寺の観音様は大きく目を開き、
参拝客を温かく迎えてくださっているかのように見える。
古くから、桓武・一条天皇をはじめ、歴代の天皇がここに眼病治癒祈願に訪れるようになったと伝えられている。
壷阪寺・高取城跡への道標 壷阪寺 壷阪寺

壷阪寺 壷阪寺 壷阪寺

4. 高取城跡

古代、渡来系氏族の「東漢氏」と「波多氏」が勢力をもって競っていた高取は、
南北朝時代に豪族「越智氏」により、日本三大山城である「高取城」の基礎となる部分が築城された。
近世になると、豊臣秀長の支持を受けた本多氏が入城し、現在残っている城跡の形へと整備された。
江戸時代には、植村家2万5千石の城下町として栄えた。
高取城跡 高取城跡 高取城跡

高取城跡 高取城跡

高取城跡 高取城跡






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